推薦図書紹介
杉原千畝の「六千人の命のビザ」により、ヒトラーから逃れ、神戸へたどり着いたユダヤ系ポーランド人の少年から物語は始まる。個人では抗しきれない国家的な暴力に対し、東欧、シベリア鉄道、日本に至るにつれ、少年は国家や民族の生存を左右する重大情報=インテリジェンスの本質を習得する。日本語で書かれた数少ない本来の意味での「スパイ小説」。
- 45P
アンドレイは市場に全力で駆けていった。十二角形の売り場の十二番だけがすでに窓の扉を開けていた。
『これから列車に乗ってお母さんと遠くに行くことになったんです。おいしいベーグルを買いにいつか必ず戻ってくるよ』
漆黒の瞳の奥には常と変わらぬ慈愛に満ちた光が湛えられていた。
『アンドレイ、お母さんに伝えなさい。お前たちの針路は北だと。いいね、北の方角だよ。北極星を目指して進み、それから東へと向かうんだ。そうすればお前たちは必ず生き延びられる。両親を大切にするんだよアンドレイ』
その預言は、三百歳の老婆の叡智に満ちていた。
十二番の売り場もまた真北に面している。エステルというその名こそユダヤの民がかつて生んだもっとも偉大な女預言者の名だった。 - 165P
『想定を超える事件はわれらが眼前で頻発しています。にもかかわらず、われわれはそこから何も学ぶことなく、再び奇襲を許そうとしている。愚者は体験に学び、賢者は歴史に学ぶといいます』
ウォルフォウィッツは、間もなく軍務に就く士官候補生たちに、国家を防衛する責任の重さを諭してスピーチを締めくくった。
『ともすると未来という未知の領域に踏み込むことを怯みがちな姿勢を、改めようではありませんか。想像すらできない事態を予想せよ。そして、かかる近未来の事態に備えるべきです』
自らの想像力をはるかに超える事態は将来必ず起きる。それに応えうる人材こそが、国家の安寧を保証する。これがウォルフォウィッツの半生を貫く信念だった。 - 243P
『あまりに整った預言の書など信じてはいけない』
預言書のなかには、ユダヤ民族を見舞った厄災をすべて正確に見通している書があるが、それは歴史の結果を知っている者が後から綴った『事後預言』だと牧師は言った。
『そう、一種の偽書なのです。『ヨハネの黙示録』を繙いてみるといい。その前半では、選ばれし民に襲いかかるであろう数々の苦難をものの見事に言い当てている。あれ程みごとに的中しているのは、厄災が起きてしまった後に綴った偽書だからに、ほかならない。そう、世間で言うところの後知恵の書なのだよ』