推薦図書紹介

■プラハの憂鬱 著者 佐藤優
ISBN978-4-10-475208-9
紹介者:工藤秀雄(西南学院大学商学部教授)
【紹介文】
1985年、著者は専門職員として外務省に入省し、1986年、イギリスの陸軍語学学校へ語学習得のため留学した。本著は、当時出会った古書事業を営む亡命チェコ人から、神学や思想、チェコ人の歴史や思考法を個人授業として受けた頃の著者の記憶をまとめたもの。「絶対に正しいこと」が「複数ある」と見る著者の視座は、この亡命チェコ人から習得した。
  • 73P

    『しかし、チェコ人にも強力な民族意識があると思うのですが』
     『確かにあります。小民族は強力な民族意識を持たなくては生き残ることができない。ただし、チェコ人の民族意識は、スロバキア人やポーランド人の民族意識とは異なります。スロバキア人やポーランド人は、民族主義に命を差し出すことができる。これに対してチェコ人は、自らの民族感情に対しても懐疑的です。これはチェコ人が何も信じていないことと関係していると思います。チェコスロバキア政府の統計によれば、チェコ人の過半数が無神論者です』
     『共産党政権の政策に沿う回答をしているのではないですか』
     『ちがいます。実際に過半数が何も信じていないのです。神を信じないのと同時に共産主義も信じていない。民族主義には宗教的な要素があります。チェコ人は何も信じていないので、民族主義も信じることができないのです』

  • 147P

    『ほんとうにそうでしょうか』と神父が尋ねた。
     『どういうことですか』と私が尋ね返した。座が少し緊張した。
     『中華民国、台湾ではなく中華民国という名前を、私はあえて用いることにします。中華民国の蒋介石総統は、戦争で日本からあれだけの被害を受けたにもかかわらず『怨みに対して徳をもって報いる』と言って日本に対する請求権を放棄した。その台湾を日本は、共産中国との外交関係を樹立するために簡単に切り捨ててしまった。これは客観的に見て、長年の友人を政治的駆け引きで捨てたことにはなりませんか』(中略)
     『二月事件ですね』
     『そうです。あのときイギリス政府は、ゴッドワルト(共産党委員長兼首相)のクーデターを口先で非難しただけだった。イギリスが本気で影響力を行使すれば、チェコスロバキアが共産党陣営に併合されることを阻止できたかもしれない。事実、イギリスは外交攻勢によってギリシアの共産化を阻止しました。客観的に見れば、大英帝国の国益にとってチェコスロバキアよりもギリシアの方がはるかに重要だったということなのでしょう。それは理屈ではわかります。しかし、私はチェコ人なので、感情としては受け入れがたい。チェコスロバキアを台湾、イギリスを日本に置きかえてみると、私がなぜあなたに台湾問題をあえて取り上げたのかが、わかってもらえると思います』

  • 166P

    パウロもユダヤ人でサウロと呼ばれていたときは、ユダヤ教のパリサイ派に属し、イエスに従う人々を弾圧していた。しかし、ダマスコに向かう途中、光に撃たれ、復活したキリストと出会う。そして、回心し、イエスが救世主であると信じるようになる。キリストの使徒となったパウロは、イエスの教えに従うことを同胞のユダヤ教徒に訴える。しかし、ユダヤ人はイエスを受け入れない。そして、ローマでパウロはユダヤ共同体と最終的に訣別し、異邦人にイエスの教えを伝えることにする。
     ユダヤ教と質的に異なるキリスト教は、こうして誕生した。真理を追求する人はいつか、自分が慣れ親しんだ場所から離れなくてはならない。
     今日、ズデニェク、神父、ヘレナと話しているときに、使徒言行録のこの箇所を思い出した。あのひとたちは、それぞれ追求している真理がある。それだから、いつの間にか、チェコ人共同体から離れてしまったのであろう。フス、パラツキー、マサリクなどのチェコ民族の英雄たちに対して、チェコスロバキア本国に住むチェコ人たちは、ズデニェクほどの強い想いをきっと持ってはいない。